哲学

2008年12月27日 (土)

”それ”と”これ”

「”それ”とは”これ”の違い」とは、どのようなことかをそれほど考えてはいなかったのですが、

  • それとは
    • 物事は客観的に捉える場合のそのモノのこと
  • これとは
    • 自分が私的に物事を捉える場合のそのモノのこと

になると思います。
したがって、「人は、己の知識(背景)の元に自分の見ようとする意思の下にモノを捉える」ので、ほとんど「これ」となってしまいうと考えます。

では、どのようなときに”それ”になるのでしょうか?神が宣った時でしょうか?
神は人の都合で作られるもので、人の支えであり、多数の人のよりどころ、統制となるものと考えられるので、”それ”とは複数の人の間で共通に認識できるものとなると考えます。

人と人が知識(背景)を共有することで、個人的な見解が共通認識になり、これがそれに変わる。つまり知識の共有が行われる。
この手段として、今、Web が大きな力になっていますが、それをより密度の高い(効率的)ものにして行くことに知恵を絞っているわけですよね。

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2008年12月24日 (水)

ICTと哲学 #5

思想家、哲学者であるエマソン(Ralph Waldo Emerson) の言葉に以下のものがあるとのこというです。

「このうえなく私的で、このうえなく隠密なおのれの予感のなかへ深くもぐればもぐるほど、驚いたことに、学者がそこに見出すのは、万人にもっとも受け入れられるもの、もっとも公共的なもの、だれにとっても真実あるものだ。」

これを、スタンリー ガヴェル(Stanley Cavell) は、「我々は、究極の単独性と無限の共同性を同時に生きている。」とといています。

これを読んで私は、ICT(Web 2.0) を思い浮かべました。それは。「このブログのように、非常に個人的な思いを記述して、おのれの内なるものを追及する行為が、世界中に公開され、検索エンジンにより共有され、そして他人の情報の支援を受けている。」ことです。

そして、このようなWeb 上の私的な情報を収集、分析して、有効情報に変換してゆこうとする試みがあります。この行為が哲学者の行為となるのでしょうね。

今日のところは、ここまでです。引き続き勉強してゆきます。

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2008年11月17日 (月)

ICTと哲学 #5

近頃、哲学が流行らない原因は、科学(精神科学、脳科学)の発達ともいえるのでしょうね。
哲学が受け持っていた分野が、別途追求され明らかになり、人が考えることよりも確からしさがあるよう荷かんじられたのでしょう。

しかしながら、哲学書を読んでいると、必要性をひしひしと感じます。
たとえば、記述論理などはRDF のトリプルの類似性です。

哲学的に言葉による用言を正しく行おうとすることと、機械が理解できるようにすることがくしくも一致したということだと思います。

ICT も使うのは人であり、人間(人と人の間)で情報のやり取りを行もので、曖昧(不完全)さがあるわけですが、機械は単純でないと効率的で有用ではありませんね。
そこで、曖昧なものをわかりやすく、記号化、モデル化して、他が理解するものに変換しなくてはなりません。これはこれまで哲学がなしてきたことそのものではないでしょうか。

哲学は人が考えることで、考えたことをどのように表現するかということですが、ソフトウエアは正に考えたことの表現物そのものではないですか。ICT(ソフトウエア)は単純でわかりやすいものがすばらしいものと思いますが、どうも哲学の書籍、論文は、回りくどくてしつこくてわかり辛いように思えます。モデル化して記号化したA4 1枚に収まるようなチャートであらわせるものが、哲学では下手をすると1冊の本になってしまうことがあります。
どうも、私のように曖昧さを排除した簡潔な情報でコミュニケーションを行うことを、嫌う人が多いのかも知れません。私は、言葉で人の心をつかむようなことはできないのですが。

ただ、哲学はこれまで長きに渡り追求されてきたものですから、広範で多様なことで学ぶべきものが多くあります。
今のような混沌とした時代にこそ哲学が必要ではと考えます。

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2008年2月22日 (金)

密教-哲学-ICT

今朝は雲がかかり、暗い朝になりました。

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おかげで少し暖かく、ちょうど0℃。
さすがに氷点下ではないので、氷も張らず霜も降りていません。
この後どんどん雲が晴れたようで、家を出る頃には

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その後、気温はぐんぐん上がったようで、本日の最高気温は13.5℃だったようです。


今日も引き続き、哲学です。

まずは、密教的に

すべてのモノ(万物)とモノは関係している

そして、人はメディアを介して人と関係している、人は、万物とも関係している
人と人の間をメディアが仲介している。だから人間である。

人の関係範囲はメディアが広がりとともに拡大できる。

モノとモノの関係の交差するとことに我があり、我が自分を取り巻くメディアを通して世界(万物)と関係して世界を知る。その中で自律した自己を意識する。
世界に開かれた無我を確認して、その中から自己を確立する。
上田 閑照教授の「私ならずして、私である」です。

今、このメディアが大衆に開かれた Internet の中にあり、モノとモノの関係が情報通信ネットワークで結ばれて来ました。

密教的には、何も無くてもモノが存在すれば、互いに関係しているので、媒体自体が存在する必要が無く、より次元の高い超越的なものになります。

これは、自分が存在すること自体が世界に影響を与えており、また、世界がありそこにモノが存在して、それに影響されているいるからこそ自分が存在するということと思います。

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2008年2月21日 (木)

自覚

今朝は、わずかに靄がかかっているように思えます。

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山が乳白色の向こうに浮かんだように感じます。
日の出の太陽は、靄のおかげで輪郭がはっきりします。

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肉眼では、もっと大きく、くっきりと感じました。

寒暖計は-3℃、機能よりわずかに寒いです。しかし、自転車で風を切れ場、ずっと寒く感じました。体調によって体感気温も変わるように思えます。

こうして、同じような時間、アングルで写真を撮ると、日々の違いが感じられます。


今日も哲学の続きです。

「覚」-「自覚」-「自己・世界理解」

これは、「相手(メディア)と対話することで己の存在を知り」-「相手(メディア)に対することで自己を確立して」-「相手(メディア)を通して世界とその中の自分を知る」ということではないかと思います。

「脳のしくみ」と「メディア」と「意識」を考えることが哲学に適合しました。

それにしても”ことば”が無ければ考えることができません。いつどのようにして”ことば”が生まれたのかよく知りませんが、人間の「考えたいという」欲求から生まれたと思います。

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2008年2月20日 (水)

メディアとコギト・エルゴ・スム

今朝は、昨日よりも晴天で、鮮やかな朝になりましたが、寒暖計は-2℃です。
日中は、暖かくなり最高気温は12℃以上だったようです。

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ちょうど寝台特急が西に向かっていますが、ケータイのカメラではさっぱり写りません。

そして日の出

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昨日とほぼ同じ写真ですが、今日は雲の無い晴れ渡った朝でした。


今日の考察は、「Cogito, ergo sum:我考う、故に我あり」です。

先日、メディアと人は対話しているということと、人の意識ということを考えました。つまり、メディアを解して世界を見ているということで、我の思考の中に世界があるということです。

これと、デカルトの「我考う、故に我あり」と接近しました。自分が考えるからこそ、自分において世界が存在するので、考える我が明確に存在しなければならないということになります。

そして、この我は、外の世界に対して開かれて、自律した我である必要があるのです。

自分が存在するから世界が存在し、世界(メディア)を認識しているからこそ、自分が存在するということになるはずです。

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2008年1月26日 (土)

ICTと哲学 #6

今日は、小中学校におけるICT活用のフォーラムを参観してきました。

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今回が2回目のフォーラムですが、参加者が結構多いです。教育学部の学生さんが半数で、県内外の先生(大学教育学部の先生も)が参加されています。

子供たちの学力向上のために工夫している現場の様子が、生々しく語られました。

その中で、ICT のCは「人と人との直接の会話などのふれあいで、まったくAnalog ですね、ITだけでよいですね」という聴講からの意見がありました。
これ自体は、哲学的で深いことですが、この場ではあまりふさわしくありませんでした。

「すべてのモノは互いにつながり影響し合っている」という、哲学的、密教的な話になってきます。神の存在も語ることになります。
この、2-3年の間で”IT”から”ICT”と言われるようになってきたと思います。これは、e-Japan から U-Japan に変わったときと重なるはずです。

つまり、モノとモノのつながり、つまりはUbiquitus です。
哲学的、密教的には「もともと、互いにつながり影響されている」ので通信技術は必要ないのですが、情報(コンピュータのデータ)として扱う場合は、RF-Tag やデータコードやNetwork などのIT 技術が無ければ通信できないのです。残念ながら。

ところは、人は、見ただけでわかり(直観)、会話すること(書籍を読むこと、記すること)で影響しあいます。学校という限られたコミュニティでつながる場合は、直接的な対話が課のです。ですからAnalog でよいのです。
このコミュニティが、地域や県外、全世界と広がれば通信技術を利用した Communication が必要になります(神ではないので)。そういう範囲で即時的なCommunication を行うのがICT ですね。

学校の現場という、今の私には遠いコミュニティの話でしたが、とても考えさせられるフォーラムでした。

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2007年7月28日 (土)

ICTと哲学 #4

ICT に哲学は必須ではないでしょうか?

システムの使用を決めてゆくとき、真実は何か、存在の証明が必要になるのですが。

ブール代数(論理代数)=0と1だけの世界、それは”真”か”偽”かとして扱われ、コンピュータの中で論理演算がなされます。

  • 「”真”か”偽”か」つまり「事実かそうでないか」

哲学的には、

  • 疑いのあるものはすべて排除して、疑いようの無いもの。
  • 疑えるものは、すべて疑い切り、事実と確認したもの。

となります。

これは、物事を明確にするということになります。しかしながら、世の中複雑であいまいなものがとても多いですね。

ですから、「事実」と「判断」を明確にしておく必用があります。これがなかなかできません。

”A は B である(です)” と言いながら ”私は A は B であると思う” という、判断であることが多いのです。私は、これを常に指摘しますが、若い人は「何を細かい指摘をしやがって、俺の意見を聞けや」と感じてしまうようです。

これは、日本語のあいまいさ「主語を省いてしまう」ということにも起因しているように思います。特に、このように記述してゆくと、「判断ですよ」「疑いがありますよ」という文章は、読みづらいものになってしまいますね。

まあ、ブログの内容は私見を記述しているわけですから、”すべて”私が考えたことですが、なるべく「確からしさ」として表したいと思って、記述しています。

この「確からしさ」がとても大切で、ビジネスにおいて、最終判断に利用されると考えます。

哲学とは「知を愛する」ことで、考えることなのに、あまりにも「感情」が優先されると感じています。そして、「部分」の組み合わせが「全体」だと思っている者が多いように感じます。

”本当にすべての場合を検討しているのか”と問わないといけないと思います。(今、実は気づきました。なぜ私が結論を出せないときがあるのかが。)

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2007年5月24日 (木)

哲学の受難

ICT は、哲学だと述べ、Ontology など、真実を知ることを考えてきましたが、工学を志す若者が少なくなり、物理を学ばない理系の学生がいるそうですが、今、哲学を学ばない、学べない学生が多いそうです。

これは、上辺しか観ない学校経営者と政府(国)の問題のようです。成果の出ない哲学を授業しなくなり。教える教授を雇用しない、だから学べない。ということです。
私は、「哲学するということ」は、「真実を知る(知りたい)ということ」だと考えます。真実を推し量れないと、上辺のその場限りの対策を施し、結果的に前より悪化してしまいます。ちょうどバイオ燃料を車のエンジンで燃やすように。
先日もIO-DATAの部長さんと、教育の話になり「企業人による授業で哲学を教えたい」ということになりました。しかしながら、金沢の大学では哲学ならばけっこうと断られたそうです。
もっと、人間が人間たること、そして地球の住民(生物)であることを考えることを行なわないと、取り返しがつかないと思います。

藤原雅彦さんでは有りませんが、「ならぬものはならぬ」では無く「必要なものは必要」じゃないですか!

ところで、MS-IME2003で馬鹿ですね! 「燃やす」としたいのに「模安」にしかなりません。けっこうこんな変換多いです。この時間の浪費はCO2に換算するといくらでしょうか?何千万の人において無駄が発生すると...MS-IME97のほうが良かった!

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2007年5月 1日 (火)

読書すること、考えること、語ること

このごろ、本を読むことで、少し先が読め、気づきが増えます。本を読んで考えていると、また面白い本にめぐり合いますし、語り合うとまったく違った方面から思いの一致が起こります。

今の私は、「知恵が地球を救う」がテーマですが、本質を知るために勉強すること、哲学することが必要、無我と自律などこのところの一致です。

私、30歳ぐらいまでほとんど本を読みませんでした。読んでいたのは、教科書と雑誌(車:F-1、カメラ:写真)ぐらいでした。就職してからは、プログラミングの本ぐらいでした。

それから、まずは俗に言うコンピュータサイエンスの本から読み出して、本を読むことを当たり前のことにするようになりました。これはもっぱら図書館を利用しました。浦安市は図書館のサービスに力を入れていたことも影響されました。特に通勤(朝はほとんどボーとしていました)時に読みます。コンピュータサイエンスから始まり、自然科学、マーケッティング、経営、アイデア想像などを読みます。どうしても、小説などフィクションでは創造力が湧きません。

岡山では、ちょうど県立図書館がリニューアルして、立派な建物に加え岡山城内で環境に恵まれよく利用しましたが、上記の書物は興味の湧くものは少なくなってきたこところで市立図書館でまた読み始めました。

そして、今の私の転機となったのが、トーマス・フリードマン「フラット化する世界」でした。これは、Web2.0 そして、情報大航海プロジェクトに関する講演の中で紹介していただきました。これを読みながら考えそしてSemantic Webに行き着きました。この約10年の間迷走していた私にSemantic Web が行く先を照らしてくれました。まさに大航海の航路を示す灯台でした。一般実用書の多い市立図書館から再び県立図書館へと足を向かせました。

これらもまたICTに関する書籍ですが、このように本から学び考えているといろいろなものにめぐり合います。そして真実とは、物事の本質とは何かと考えているうち哲学にめぐり合いました。

上田閑照『私とは何か』:これはとても考えられます。ず~とただ”私は、私なくして、私である”と訴え続けられるのですが、とてもおくが深い。そしてまさしくと思えることが、身の回りでドンドンめぐり合います。薄い文庫本ですがいまだに読み通せません。

呼んで、そして、考え、皆に語ります。周りは、「私が変わった」と言います。単に人生の目標ができただけですが。

本当に先が見えてきます。講座を受講し手も講師のこれから言うことが見えます。でもそれを私が発することができていないのでもう一息と思い学びます。

学びながら行動しないといかないです。まだ、大きな成果は上げていません。でももうすぐと思って頑張っています。このようにしていると、本と上辺だけの軽薄が見えてきます。

全体を見て、本質を考え抜く。これだけです。

今まで、私はかなり等身大で生きてきました。だからよく変わり者といわれました。しかし今裏付けができたので、パワーが異なります。

そして、いままで隣町だったところが合併で同じ市となり、そこの図書館で学びます。そして今日もすばらしい本とめぐり合いました。

今日悟ったことは、「全体を見よ、そして我々はどこにいるのか?」我々は地球の上にいるのです。今日めぐり合ったのは、”ガイア”のジェームズ・ラブロックです。

まさに、私の目標、である地球がテーマの方の一冊です。そして”オイコス”と”ロゴス”これは非常に重要なKey Word であると私はかたっていいますが、誰も気づいてくれません。

それにしても、語り合える人が身近にほしい…

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