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2013年3月23日 (土)

「鬱」が職業病といわれる

現代社会は「ストレス社会」と言われ、ソフトウエア産業においても「鬱病」になった、なりそうということを耳にするし、新聞、雑誌でも「厳しい仕事で、鬱またはほとんど鬱になった」という記事を見かけます。

実際、医者もすぐ「鬱です。」と言いすぐに薬を処方する。

科学的療法で治療を施すというのも当然の手段でしょうが、やはり人と人とのつながり、心を安らげる、開かせる、閉じてしまった内なる何かを外に出すことが一番だと私は断言しますが、なかなかそれができる医師が少ないのでしょうか。

まぁ、医者も人なので会話の楽しくない患者とは、話は進まないでしょうが、会話できるのならば医者へも行かない。

そんなことを思うのですが、鬱になるような(似非鬱ではなく)厳しい仕事をこなすことになり、さらにその責任者だったとき、いかに他のもの、上司、同僚、部下が何もしないし、あてにならないことを痛感することは、ほかにないと思います。実際そうでした。

だから自分自身が行動せねばならぬのですが、やはりそこで自分だけになってはいけない。

まず、楽天的に考え、この仕事がうまくいって完了した時のことを思い浮かばせなければならない。

そして、積極的に他者に協力、支援、活動してもらうようにしないといけません。すべてを自分でやれるわけがない。できるのならば、厳しい悲惨な仕事ではそもそもないわけであります。

厳しい状況が続けば、心は確実に病むし人間不信にもなります。

それでも、いつかは終わりが来ることを悟り、無事完了する思って前に進む。

ほんと、助言はすれど行動はできないのが現実。こちらから動かせば動く。

どこまで行ってもやはり、自分の人生は自分の行動の結果であります。

「似非鬱」の奴らは途中で投げ出して、会社を休む。終わりが見えたころ復帰して、自分の手柄にして他の企業などに移ってゆく。そんなコンサルタントのような奴もいた。

「鬱」「似非鬱」のものに対してどのように対応するかは非常に困難な課題。もう何年も付加をかけないようにしているのに、相変わらずだし、ここで引っ張ってやりたいと思っても、それが負担になってはいけないということになる。

確かに、その時どうしようもない上司がいて、救うことができなかったのだろうが、「もう少し人には力があるのでは」と思ってします。その時私は、まさに病んだ状況。

厳しい状況も、「後から思えば二度とない肥し」などということもありますが、それはこじつけと言うか、経験を政党化させないとなんともやるせない。生きている証、職業人としての証にせねばいたたまれないからだと思います。

確かに、経験は生きます。でも、できることならば経験しない方が良い。

中には、厳しい状況でもストレスを感じない者もいるようですが、それは責任感の強さの問題と、周りや部下のことを考えないだけのようです。

関係者の都合とか、思い、状況を全く考えなければ、たぶん「鬱」にはならない。

今日は、朝日の朝刊に関連した記事があったことと、人に相談されることがほとんどない部門長のことが頭にあって、長く記してしまった。

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